水瀬いのりさん26歳の誕生日おめでとうございます
柳父章『翻訳語成立事情』(岩波新書、1982年)を読んでるんだけど、
「恋愛」って言葉が使われ始めたのは幕末~明治初期あたりで、
「love」や「amour」の訳語として各種辞書に登場し、巌本善治らの批評によって意味の輪郭が形成されていく。
既に日本語にあった「恋」や「愛」とは区別されて西欧的な恋愛観、
「色」や「情」とは区別されて高尚な雰囲気の行為として「恋愛」が広まる。
著者の考察として語られているのが西欧の「恋愛」と日本の「恋」がもともと異なるという点で、
西欧の恋物語を見たとき、初めに美しい女性がいて、それは遠方から現れる。
男は直ちにそれに近づこうとせず、かえって遠ざかる。
結末には女性のもとに戻るが、その過程の肉体的な別離と魂のつながり=深く魂より愛することを以て「恋愛」が成立する。
一方で日本古来の恋物語は二人が一旦結ばれて、その後の悲しみや喜びが描かれていて、
その点で「恋愛」が「恋」や「愛」と区別されるのが著者の指摘なんですよね。
去年珍しくVの人についていろいろ書いた→Vの人 いろいろ
そこで物理距離にだけ着目して以下のように書いたんだけど、
タレントと視聴者との物理距離は2つあって、
[タレント]──【距離1】──[カメラ/ディスプレイ]──【距離2】──[視聴者]カメラとディスプレイの間にも距離はあるのかな。
Vの文脈でここを物理距離としてしまうことにちょっと違和感あるんだよな。
じゃあカメラとディスプレイとの距離ってなんだろうな。
カメラより左側はV空間で、ディスプレイより右側が現実空間である以上、
カメラとディスプレイの間には物理じゃないけど絶対的な隔たりがある気がする。
この距離を測るとき試しに「干渉度」のようなものを定義してみるのはどうかな。
互いに離れるほど声が聞こえずらく挙動が見えづらくなって、
近づくほど動きや表情もコミュニケーションに影響してくることを二者間における「干渉」として、
干渉の度合いで距離みたいなものが定義できるんじゃないかな。
例えばVの人の配信はチャット欄でしかVの人に干渉できないので視聴者から見たカメラ-ディスプレイ間距離はすごく遠くて、
Vの人は自分の声や動きや表情で視聴者に干渉できるのでこの距離は随分近い。
AB=BAが成り立たない非対称な空間ですね。
そういう非対称でタレントが定義されてるかもしれない。
Vの人のライブではこの非対称が崩れるんですよね。
Vの人の声や仕草が客に干渉するのはもちろん、
客の笑い声や拍手やサイリウムもVの人に影響していて、
その点でついにカメラ-ディスプレイ間の距離は対称、
あるいはV空間と現実空間がついに面で接してしまい、【距離2】だけがその場に残るんですよ。
【距離1】もカメラ-ディスプレイ間の距離もゼロになって、
今まで隔てていたV空間と現実空間がライブ会場で結ばれるというのがあたかも恋物語なのだ。
【「#月ノ美兎は箱の中」現在生放送中!】
— にじさんじ公式🌈🕒 (@nijisanji_app) 2021年11月16日
月ノ美兎1stワンマンライブ 「月ノ美兎は箱の中」ニコニコ生放送にて放送中!
是非ハッシュタグ「#月ノ美兎は箱の中」をつけて、感想を投稿してください!
視聴ページ▽https://t.co/KmW7ZTE8p4
ネットチケット▽https://t.co/C7vIw3GViF pic.twitter.com/IiU966B7IE
11月に現地に行った月ノ美兎さんのソロライブも非常に良かった
一方で、かえって距離が意識させられたのがこの間のホロライブ3期生ライブで、
配信で観ていたらなんとホロライブ3期生の皆さんがいるV空間はライブ会場には無くて、
V空間と現実空間はあるいは点で接していても、確実に【距離1】も【距離2】もある。
15:58あたりなどで映るステージと会場の関係が結構衝撃的だった。
かえって距離が強調される点でかなりこれは柳父章の言う西欧的恋物語なんじゃないか。
初めに美しい女性がいて男がそれと距離をとるのが、そのままV空間と現実空間の距離になり、
カメラ-ディスプレイ間距離を「魂のつながり」と言い換えることでこのライブが「恋愛」になるんですよ。
同時に月ノ美兎さんのソロライブもホロライブ3期生ライブも、
V空間を現実空間に翻訳したときの著者ごとの訳出の差異なんですよね。
今年は10月に水瀬いのりさんのライブの横浜公演を観に行って、
ステージから遠い1階席から見ていたらトロッコに乗って近づいてきてウオッとなった。
まあでもこれは恋だろうな。
水瀬いのりさん26歳の誕生日おめでとうございます。