水瀬いのりさん24歳の誕生日おめでとうございます
バーチャルYouTuberさんの配信、ちょー楽しいんですよ。
2年近く経ってまだVの人を観続けてるしアニメやラジオの視聴時間がどんどん削れていくのがわかるんだけど、
2年経つことで多分楽しみ方の質も変わってて、自分で去年書いたブログを読み返したときVの人の楽しさをあの時点で構造分解しなかったの偉かったなと思う。
2年経っても構造分解できる言葉は持ってないが…。
で、今年の5月にVの人のライブに初めて行ってきたんですよ。
アイドル部〜1st Anniversary PARTY〜はんぱないパッション
アイドル部さんのライブ。
イベントの構成やらなんやらは全部省略するんだけどめちゃくちゃ良かったのが、
アイマスのライブなんかでよくある、ソロ曲中に袖で別のアイドルが一緒に踊るやつ (ここで参照がアイドルマスターなのは悲しいことですね)、
あれがあって、
真っ黒な画面の中に急にアイドル部さんのメンバーが出てきて一緒に踊ったと思ったら曲の終了とともにパッと消えるんですよ。
出てくると思ってなかった演者さんが急に出てきて虚を突かれたというのもありつつ、
「さっきからそこに居たの!?」や「でも我々は黒い画面しか認識できないからフェアじゃない!」などぐちゃぐちゃと今見ているモノに対する認知が歪められて。
今まで我々が観てきた非V音楽ライブは「ステージに出る」と「ステージから捌ける」が物理的に連続で儀式的で直観的だったんですよ。
でもVの人は瞬間に出てきて瞬間に消えていて、「その場に居る」性と「その場に居ない」性が同時にあって、不連続に現れたり消えたりできるじゃないですか。
多分なんだけどディスプレイに何も写ってない状態で音声だけ流れるVの人のライブがあったらそれは「不在」判定じゃないですか。
非不在性を保証するのが視界だけというのがめちゃくちゃ頼りなくて、
じゃあ僕が毎日電車の中でBGMとして聞いているVの人の歌配信のアーカイブにおいて話し手は不在だし架空の何かを聞きながら今歌詞を間違えて照れている人格も画面から目を離したらそれは人格とは定義されなくて・・うおおお
にじさんじのエポックな点を語るときよく言うのが(既に古い言説かもしれない)、
にじさんじ以前のVの人は「バーチャル空間」に「仮想の体」で曖昧に存在していた一方、
にじさんじの人は今ここに”居る"んですよと。
黒髪ロングで制服を着て高校に通ってる月ノ美兎さんが東京のどこかに住んでて生活をしているし、
日本に程近いどこかにヘルエスタという国があって生活があり交友があり接触があるんですよ。
前者を不在、後者を非不在と捉えるなら前段と不在の定義が変わってきて、
生活があり交友があり接触があることを我々は(配信の性質上)音声を通じてでしか認識し得ないじゃないですか。
配信というフィルタを通してたまたま我々の視界で認識できるのは画面の中で平面的に動く人なんだけど、
ここでいう不在なら、配信中の機材トラブルで自身の姿が映ってないVの人が水を飲んで嚥下音をマイクに載せたりするのは非不在じゃないですか。
たとえば顔も名前も全く知らない芸能人やVの人がいたらそれは存在してないことと同じで、
でも電車の中で通路を塞いでくるおじさんは顔も名前も知らなくても今ここに存在はしてて。
後者が五感に頼った絶対的な存在なら前者は自分フィルタを通した相対的な不在で、
多分自分の脳内に人物名ごとのフォルダがあって、フォルダ内のディレクトリの深さや総データ量などの値で相対的不在性を判定してる気がする。
そしたら絶対不在でも五感を使う以上脳のどこかを経由する必要があってこれも相対的な基準ですね、便宜上絶対不在って言うけど。
じゃあ絶対・相対の2軸を以て不在か非不在かの二値で与えるかというと多分そうじゃなくて
というのは我々は壇上で歌う声優の不在性を嬉しく感じたりVの人の不在と非不在の同居に心くすぐられるじゃないですか。
不在ってのはもっとこう、2軸でも濃淡で表されるんですよ。
そうやって居なかったものが居ることが気持ち良くて、
居るものが居なくなることが更に気持ち良くて、
アイドル部の人が視界から唐突に現れて唐突に消える気持ち良さは結局、
ステージの上の声優を客席から観る気持ち良さ、アニメキャラの声としてテレビから声が聞こえる声優のそこに居なさと同源なんですよ。
その文脈において我々はついにVと声優を不可分なものにできたんですよ。
今年は6月に水瀬さんの武道館2daysワンマンがあって2階席の最奥から主にディスプレイに映る水瀬さんを観ていた。
あれは居たのかなあ。
水瀬いのりさん24歳の誕生日おめでとうございます。