学祭イベントで服を脱ぐ声優

蓋し声優とは、文脈で身を固めた生き物なのだ。
作品や歌手業を筆頭に、我々が目にできる声優のほとんどは、文脈の中に存在する。
声優イベントで声優が自己紹介をする。
「○○役の△△です」、と来るのが当然であり自然なことで、
我は作品文脈に身を置いているぞ、というアピイルである。
声優ライブで声優が自己紹介をするとその枕詞はつかない。
わざわざ「歌手の××です」と言わなくても客は歌を聴きに来ていることが前提にあるからだ。
客も含めて空間として歌手文脈が成立している(ライブなので当たり前だが)。
誰も「田村ゆかりのコンサート」に「木下林檎役 田村ゆかり」を求めに来てないから、
コードレス☆照れPHONEを歌わなくても不満は上がらないのであって、
断りを必要としないレベルに歌手声優は歌手文脈が成立している。

自分の話をする。
自分は割と高頻度に声優イベントに行く。
人並みに、いわゆる"推し"もいるし、文脈無視で「水瀬いのりとあらば」と参加したりする。
一方やはり、「ゆゆ式文脈の種田梨沙は見たいけど境界の彼方文脈はスルーできるな」とか
「ミルキィもラブライブの好きだけどアーティスト三森すずこへのプライオリティは低いな」とか思う。
帰納的に、文脈無視で追える声優が"推し"なんじゃないか、とさえ思う。
それでも「SAOのひだかりなちゃんは面倒だな…」とか
ガルガンティア関係で水瀬いのりちゃん呼ぶのは勘弁してくれ…」とか思うので、
半ば義務感になっているし、義務感も含めて推しなんだろう。

学祭イベントの話をする。
ここで学祭イベントとは大学の学祭で声優を呼んでトークショーをするものとする。
他のアニメなりなんなりのイベントと何が大きく違うかと言うと、
「大学の学祭で声優を呼んでトークショーをする」ことに何の文脈も必要としない点だ。
何か作品を背負って来ることもなければ、ライブコーナーが無い限り歌手文脈も排除される、
着の身着のままの声優が味わえる。
ラジオはどうなのか。A&Gなんかはほぼほぼ作品を背負わない声優が喋るではないか。
という見方もあるが、ラジオも等しく興行なので、
番組の方向性や相方との兼ね合いで本人が脚色されるという見方を主張したい。
ともあれ、学祭イベントに声優は裸でやってくるのだ。
大学生は、固く身を包んだ声優の服を脱がすのだ。

しかし大学生が声優の衣装を用意する類いもままある。
身近な例だと2013年の東京工業大学工大祭「佐藤利奈新井里美の超話術会」
組み合わせとタイトルで100人が100人「レールガンだな」と察しがつく
イベントの内容としてはゲーム性の強いバラエティな企画。
レールガンについて立ち入った話が聞けるとかそういうものではなかった。
ここで大事なのは客がレールガンを連想しつつイベントに足を運ぶ点で、
主催がレールガンを意図したキャスティングをしたという点。
次いで2013年の中央大学白門祭「あずあずの 楽しくてしょうがない! 〜トーク&ミニライブ」
田所あずさ単独での学祭イベント。
主催が「アイカツの話もいっぱいしますよ」と銘打ち、
イベント内ではシークレットゲストでアイカツの脚本家の人を呼ぶ徹底ぶり。
しかし集客は大したものではなかった、100人もいなかった。
当時からアイカツというコンテンツの盛り上がりは目覚しかった上、
勇しぶでも名前を広め始めた田所あずさともあってこの集客。
もちろん多摩キャンパスの地理やほかのイベントとの兼ね合いもあるが、
ここで思うのは、多くが田所あずさ1人にアイカツの文脈を見出せなかったのではないかという点。

作品、特に人気作品が文脈として見えると、
「お、あのアニメの話が聞けるなら行ってみるか」となるのが、
声ヲタではどうか知らずともオタク分母ではマジョリティ、と主張じゃなくて一般論として認めたい。
学祭イベントの集客にあたってこのプロセスが一役買っていることもまたその系とできて、
要は僕が声優に取り巻く文脈で行くイベントを選別しているように、
一般に声ヲタ、引いてはオタクのみんなも声優のバックに見える文脈でイベントを取捨選択しているのだ、という話。
大橋彩香田所あずさのコンビで学祭イベントがあればアイカツ好きが群がるし、
久保ユリカ飯田里穂だとラブライブ好きが群がるという話。
一方文脈の見えない学祭イベントは、本人に興味があるかどうかしか行くきっかけになり得なくて、
神様ドォルズ大好きな人とかスマイルプリキュアの熱心なファンが福圓美里トークショーに行くかと言うと難しいところ。

要するに声優本人がそのパーソナリティを諸文脈に依存してる以上に、声ヲタが声優の文脈に依存している。
記事も「声ヲタの文脈依存」みたいにすべきだったが、
声ヲタについて論じてるみたいであまり気持よくないのでやめた。
イベントの裏の文脈を読み取って参加の意思を自分に問うのがオタクアビリティで、
声ヲタは推しに対して文脈を読むのを放棄して参加に臨むので頭が悪い。

学祭イベントの文脈依存なんてのは詰まるところ主催者の意向如何なので、
これは「作品ありきで声優が好きか、声優ありきで作品が好きか」という声ヲタ倫理とも関わってくる。
倫理というより宗派の問題で、こういった声優を呼ぶ類いの大学生に後者の思想がいるかどうかだと思う。
個人的な意見を言うと、「作品ありきで声優が好き」な人間、
声優には好かれるけど声ヲタには鼻をつままれるというイメージで、
本人文脈に作品文脈を持ち込むな、と逆説的な理由で僕も鼻をつまむ。
OLDCODEXのライブでうたプリ鈴木達央キャラの名前を叫んで後日本人が苦言を呈す、という話もあった。
仮にOLDCODEXでも黒崎蘭丸でもなく「鈴木達央」として鈴木達央がイベントに呼ばれたとして、
ファンはどの文脈を以って参加すべきなのだろうか、という話。
OLDCODEXも黒崎蘭丸も鈴木達央の一要素なので「鈴木達央」として呼ばれたら全文脈が許される、
という意味で「本人文脈に作品文脈を持ち込むな」とは蓋し逆説的だ。
でも人情として、「本人文脈」は作品文脈と差別化したい。
人情でなく声ヲタ情だ。
それは一方、声優を声優然と見ず、人間として認める、ので今度は「声優は神か人か」みたいな声ヲタ倫理にも抵触する。
人間が作品文脈に身を纏う時『声優』になって、
声優が作品文脈を身から下ろす時『人間』になるのではないか。
「人間は服を着たサルだ」とはよく聞く言説ではあって、それを借りるなら
「声優は服を着た人間だ」と言うことで声優は超人間的になり得る。


なんにせよ、学祭イベントは声優が服を脱いでくれる貴重な場、という認識のもと、
個人的には作品文脈に縛られない自由なキャスティングを望みたい。
声ヲタは着飾った声優に見飽きてるのだから。
セルフィッシュな声ヲタに幸あれ。