映画35本観た(2020)

まえがき

2018年に映画100本観た。

でも100本観て終わりじゃなくて無限にある旧作と無限に出てくる新作に向き合うための足がかりの100本だったので、2020年は意識的に新作を観るようにした。

2019年は生活が変わったのでよく覚えてない。

 

 

観たもの

新旧ないまぜ観た順

 

No. TITLE
1 劇場版 ハイスクール・フリート
2 9人の翻訳家 囚われたベストセラー
3 劇場版 メイドインアビス 深き魂の黎明
4 パラサイト 半地下の家族
5 アントラム/史上最も呪われた映画
6 ミッドサマー
7 羅小黒戦記
8 劇場版 SHIROBAKO
9 ムカデ人間
10 チャイルド・プレイ(1988)
11 映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ
12 蜜蜂と遠雷
13 エジソンズ・ゲーム
14 悪の偶像
15 一度も撃ってません
16 ロード・インフェルノ
17 悪人伝
18 少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド
19 ドラえもん のび太の新恐竜
20 変態村
21 TENET
22 劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン
23 デビルシャーク
24 スパイの妻
25 星の子
26 どうにかなる日々
27 鬼滅の刃 無限列車編
28 クワイエット・プレイス
29 キラーメイ
30 罪の声
31 魔女見習いをさがして
32 ミッドナイトスワン
33 燃ゆる女の肖像
34 エスかノーか半分か
35 ジョゼと虎と魚たち

 

 新作5選

・パラサイト 半地下の家族
・悪の偶像
・どうにかなる日々
・ミッドナイトスワン
ジョゼと虎と魚たち

 

こういうの選ぶときバランスやオッズを意識しがち

 

Vの人ドリブン

  • アントラム/史上最も呪われた映画

    www.youtube.comでびでび・でびるさんの映画予定表は本当に頼りになる。

  • ムカデ人間

    live2.nicovideo.jp気持ち悪さより理不尽さや被害者への同情などが感想として先に来るので観てみないとわからないシリーズだな。

  • 変態村

    live2.nicovideo.jp金剛いろはさんのこういう配信が増えてほしい

  • デビルシャーク

    www.youtube.com

    サメ映画を笑うとき低予算感や演出の拙さを笑うことがままあるのでハッと自意識と格闘する瞬間がある。

  • クワイエット・プレイス

    www.youtube.com
    クワイエット・プレイス、終わり方が最高だったな…。

  • キラーメイ

    live2.nicovideo.jp

    こう並べるとでびでび・でびるさんのファンみたいだな

  • エスかノーか半分か

     この後の配信で当該映画のことを言ってた気がする。BLモノでアニメで上映館が少ないなどのヒントでおそらくこれだろうと思って観た。
    衒いのない直球のボーイミーツボーイで、終盤イエスの面とノーの面が明らかになった上で「今日はどっちだ」と問われて照れながら「半分ずつ」と答えるのが嬉しい。そのあと結構長尺で行為シーンが入るのもよかった。
    同時上映でお下劣BLギャグアニメがあって、劇場にいた高校生くらいの女子数人組が男性器を連呼するような映像でゲラゲラ笑っていたのが質感だったな。

 

むすび

ホントは50~60本くらい観れたら上出来かなと思ってたけど、なぜか新作が全然上映されない空白の期間が存在して35本になった。

水瀬いのりさん25歳の誕生日おめでとうございます

バーチャルYouTuberさんの配信、めちゃくちゃ楽しいんですよ。

 

 

アニメの話なんだけど、アニメ内アニメってあるじゃないですか。

劇中劇の狭い意味としての「アニメ内アニメ」。

目を瞑って考えてみてほしいんだけど、「主人公がアニメオタク」という設定のアニメで、主人公が作中でアニメを観るとき、「アニメのキャラ」と「アニメ内アニメのキャラ」ってどう区別できるんだろう。

我々はおそらくアニメキャラと現実キャラをなんとなく区別できてるんだけど、アニメキャラがアニメ内アニメキャラを観るとき、現実キャラ(我々)はその2層目と3層目を区別できなくない?

 

これに対して自分の中で一応の仮説はあって、

1:アニメを現実に寄せてアニメ内アニメをフィクションに寄せる(設定の非現実化)

2:絵のタッチを変える(容姿の非現実化)

のどちらか、あるいは両方を駆使して区別可能なるのではないかと睨んでる*1

2に対する議論は今回は置いといて1の話なんだけど、パッと今思いつく例として『俺妹』のメルルとかそうじゃないですか。高坂桐乃さんが既にアニメなのに高坂桐乃さんが心酔するアニメはもっとアニメじゃないといけない。『3D彼女』もそうだったと記憶してる(これは絵も変えてたと記憶してるから多分1・2両方)。『Re:CREATORS』はアニメキャラが現実に出てくるという設定でアニメ内アニメキャラとアニメキャラを区別するのに1の要素がかなり大きかった気がする*2。ちなみにアニメ内でドラマを放映させたいときは逆で、アニメを現実に寄せてアニメ内ドラマも現実に寄せる感じだと睨んでます(『みなみけ』内の「先生と二宮くん」とか。『サザエさん』で波平さんが時代劇を観るのも似てるかもしれない。)。

でも、アニメを現実に寄せるのは我々が現実キャラだから直観的に理解できるけど、「アニメ内アニメをフィクションに寄せる」ときの「フィクション」って何だろうな。

 

 

「フィクション」を考えるうえで上述のアニメの現実化と並んで、アニメの劇中劇を非現実化することを「アニメ化」ってここでは呼びます。既存の言葉で意味を再定義したらカッコいいから…。

じゃあ具体的にアニメ化の例って何かというと、パッと思いつくのは上でも挙げた魔法少女なのかな。魔法が非現実なうえに、魔法少女のコスチュームって一発で「現実にこんな服装で歩いている人いない」と分からせるデザインや色合いじゃないですか。で、この「現実にこんな服装で歩いている人いない」感ってアニメ内アニメの描写では多分重要で、アニメ内アニメって大概が劇中で放映されてるという状況で短い尺で流れるので、いちいち魔法や超能力を使えるみたいな非現実設定を描写する時間が無いことも多いんですよ。我々がアニメ内液晶に映ってる人物を見てパッと「アニメ内フィクションだな」とわかるのは結構服装やキャラデザイン(角や尻尾が生えてるとか)に依拠してるんじゃないかという気がする。

逆を言えばスーツや制服や特段奇抜じゃない私服などを着ることが「現実化」のような位置になるけれど、スーツや制服を来てても設定でいくらでもアニメにできるし、外見だけを以て「アニメ」と「現実」を1軸の両端として考えるのは危険な気がするので、ここでは「非アニメ化」として区別したいな。

改めて、アニメ化したアニメ内アニメキャラは、視聴者が一瞥して「アニメだな」と思う外見であることがままあるという点を強調しておきたい。

 

 

Vの人が我々と世界を隔ててることを担保してくれてるのは、設定や外見がアニメ的であることだと思ってて。アニメ化すればするほど「ここにいない」性を担保してくれるし、翻って非アニメ化していくほど「ここにいる」性が担保されるんですよ。手癖で在不在の話をしてます。

 にじさんじがVの文脈で「ここにいる」性を以てエポックだったという言説は樋口楓さんが学生服で大阪に住んでいたり、同じく高校生の剣持刀也さんが神奈川に住んでいたりという内外の非アニメ性でも補強される一方、勇気ちひろさん物述有栖さんの声とプロフィールと外見を以て「ここにいない」性を補強するベクトル、つまり視聴者が一瞥して「アニメだな」「フィクションだな」と思うベクトルも確かにあると思う。

これはかなりアニメの劇中劇を技術でアニメ/ドラマに区別させるのとアナロジーを感じるし、「V」と「アニメ内アニメ」が構造上似ているという事実は「現実→アニメ→アニメ内アニメ」の3層構造と同位相に「X→現実→V」みたいな観測世界Xを推測させて嬉しくなっちゃうな。

 

そしてアニメ内アニメと同じようにVの人のアニメ⇔非アニメも揺らぐんですよ。アニメ内アニメの話に戻ると、会社勤めのサラリーマンの物語がアニメ内液晶にあったら多分「ドラマ」だと思うけど、そのサラリーマンが急に超能力を使うなどしたら「アニメ」だなと思い直す、そういう認識の揺らぎがあると思ってて、Vの人もその揺らぎに対する安心のできなさがある。

それが一番揺らぐのってVの人の新衣装お披露目なんですよ。というのも大概の新衣装ってVの人が自分で意志と哲学を持って発注したもので、アニメ⇔非アニメの変化が一番露骨に生々しく出てる(非アニメを生々しさって表現するのは粋じゃないですね)。少なくともその変化の背景にV自我の発露というのはきっとある。

ニュイ・ソシエールさんは魔女なんだけど私服の新衣装がお披露目されたときはギャッてなっちゃったし、

騎士である白銀ノエルさん新衣装をお披露目したときはなるほどってなっちゃった。

どちらもネガティブでもポジティブでもない驚きとしてなんだけど、確かな連続性を持ってアニメが非アニメになっていく感じというか、その連続性があるから逆に落ち着かない感じというか、そういう足場の安定のしなさがある。もしかしたら単に人の自我の発露がちょっと苦手なのかもしれない。現実内液晶に映るVの人が非アニメに動き出すなら、Vの人が死んだとき我々は秋葉原で上映会とともに弔うのかな。

 

今年は1度も水瀬いのりさんを観なかった。

水瀬さんの一人ラジオ(MELODY FLAG 第203旗)でさらっと「幼児心理カウンセラーの資格を取った」と報告していて、新衣装お披露目だなと思った。

 

水瀬いのりさん25歳のお誕生日おめでとうございます。

 

 

 

 

*1:ヲタクに恋は難しい』ではなんとアニメ内アニメとして『冴えない彼女の育てかた』のビジュアルをそのまま持ってきていて、2として解釈できるのは勿論、現実キャラの既存知識を利用してアニメキャラをアニメ内アニメキャラに再定義してる点で1でも2でもなくてエポックなんですよ。

*2:煌樹まみかさん(魔法少女のアニメ内アニメキャラ)は作中で死ぬんですけど、なんと現実の秋葉原で葬儀をされて一挙上映会もあって楽しい。現実とアニメを不可分にする作品コンセプトに即してはいる。でも500円で葬儀に参列できて特典ポストカードと清め塩があるから嬉しい。

竹馬

 

また寝る前に竹馬のこと考えてた。

就寝前の電気を消して目を瞑って脳内に意識を向けるとき、決まって浮かんでくるイメージのひとつが「自分が竹馬に乗っているシーン」なんですよ。

 

竹馬に乗った幼少期を思い出してるとかでなくちゃんと成人男性の体重を竹馬が支えてる。2本の軸に自分の体重を委ねてる不安感、地面から十数センチ高い浮遊感、重心が思ってるより前にある意外感、などが竹馬に乗っている自分を思うだけで追体験されて楽しい。物理的に竹馬と同時でないと身体が移動できないので竹馬と一体となったようなエンタメ性もある。単純に自転車やセグウェイに乗るような新しい移動感覚に対する楽しさ。竹馬の接地面では確かに体重が乗っているのに、竹馬を使った移動はまるで体重を意識せずにできちゃってるのも良い。楽しいと同時に落ち着く感じもある気がする。竹だからかな。

 

少し話は変わるけど「就寝前の電気を消して目を瞑って脳内に意識を向けるとき決まって浮かんでくるイメージ」の他のパターンがあって、それが「自分が屋内で首を吊ってるシーン」なんですよ。本当に全然マイナスな意味は無くて、「首だけで自分の体重を支える」って生きてて1回もやったことないじゃん。自分の首が鉄のように硬い仮定のもと首を吊ったら絶対にブランコ的な楽しさが存在して、腰に紐を巻いて吊るとかと同じ感覚でイメージしたくなる。絶対に試せないという背徳感もエンタメに拍車をかけてるかもしれない。だから竹馬も首も、空想の中で空を飛びたいとかと同じ感覚なんだろうな。

 

話は戻って脳内で竹馬に乗ってまず地面を歩く。でも想像の中の地面はどんどん柔らかくなっていってズブズブと沈むから今度はアスファルトの上を歩く。足場が硬いと作用反作用で体重が直に感じとれて良い。

 

そのあとアスファルトの坂道を歩こうとする。平地で竹馬に乗ると基本は前傾姿勢でバランスを取るんだけど、上り坂だと傾斜のおかげで重心がいつもの位置に戻る。坂を歩いて登ろうとすると普通重心は前に行くんだけど、竹馬で坂を登るときは身体が重力と平行になる。いや本当か…?竹馬の前傾に上り坂の前傾を重ねるんだから更に前傾になって、下向いてるんじゃないかみたいな姿勢なんじゃないか。下り坂はどうだろう。前傾のまま下るとそのまま転げ落ちちゃうので重心は後ろを意識するだろう。じゃあ下り坂こそ身体が重力と平行になるのかな。いやそもそも傾斜次第では竹馬の足を載せる部分が坂に引っかかるな、だったら後ろを向いて下るのが正解か。うーん考えるのに飽きてきた。

 

次に竹馬で階段を登ろうとする。十数段で終わる屋内の階段でなく空に向けて永遠に続いてるような階段。竹馬で階段を上がるときはどうするだろう。片足を1段上に掛けた時点で重心の置き方がわかんなくなる。あれ、両方の軸にバランスよく体重掛けながら足を持ち上げられるだろうか。しかも置いてきたもう片方の足を上げるときはまだ体重を置ききってない既に上げた足のほうに体重を寄せないといけないしそのままバランス取るの無理じゃないか。片足ずつ登るのが駄目ならジャンプで一気に登るのはどうか。いや着地時に絶対バランス取れないしな…。そろそろ階段を下ってみるか。いや1段ごとの足場の幅が十分無いと下り坂問題が発生しちゃうな。いや足場の幅が十分あっても大股で踏み出さないと駄目だ。しかも基本は平地と同じ前傾なのでめちゃくちゃ怖い。やっぱりもう1回アスファルトの坂を登ってみたいな。うーんなぜか落ち着くし平地には無い安定感がある。

この辺りで竹馬に飽きて首でブランコしたりする。

 

 

これ不思議なのはそもそも僕が竹馬に乗るのに成功した経験無いんですよね。小学校低学年くらいに竹馬を触った記憶はあるけど2歩以上歩けた記憶は全く無い。それが悔しくて何度も挑戦したわけでもなくて、多分数回トライして無理だなと諦めたと思う。でも竹馬に乗る自分だけはなぜか憧れとともに原風景として存在してるんだよな。憧れというよりフワッと未知ラベリングをして未知フォルダに置いただけだと思うけれど。

 

坂道や階段などの姿勢は絶対調べれば正解がわかるんだけど、これの正解を知っちゃった日の夜から自分は布団で何を思うのかなと思うとちょっと怖い。今まで意味のあった想像が次の日から急に空虚になるのはイヤだな。あと実際の竹馬を触るのも怖い。自分が竹馬に乗れないことを身体で思い出したら今まで書いたこと全部泡が弾けるように消えてしまう気がする。でも空想のように楽しく竹馬に乗ってみたいって気持ちもあるから目の前に竹馬置かれたら乗っちゃうな…。

あとここに寝る前の思考を全部筋道立てて書いちゃったから、もう寝るときに同じこと考えようとしてもこの文章のトレースになっちゃうんだろうな。今からどうやって寝ようかな。

 

終わり。

Vの人 いろいろ

オムニバスでアラカルトなブログ良いなと思ったので書きます。
メモ帳に書いてたものを数行膨らませて書きます。



●画面いっぱいに姿が拡大されることを「ガチ恋距離」って表現するのは面白い気がする
 
ガチ恋」の部分はどうでもいいんだけど「距離」の部分が面白い気がする
人間世界では被写体が大きく映る=カメラと被写体との距離が近い って前提があって
視聴者は画面の向こうの空間も同じ物理で成立してると認識してるんじゃないか
タレントと視聴者との物理距離は2つあって、

[タレント]──【距離1】──[カメラ/ディスプレイ]──【距離2】──[視聴者]

みたいな感じで、
Vの人はVなのにまるで距離1を定義できてるような認識なのは
新しいものを既存のモノのアナロジーでしか認識できない視聴者の敗北ですね

カメラとディスプレイの間にも距離はあるのかな。
Vの文脈でここを物理距離としてしまうことにちょっと違和感あるんだよな。

あと距離2が小さくなるのはガチ恋距離ではないんですよね
携帯の画面を目の前に置こうが写真集に鼻先をくっつけようがガチ恋距離ではなくて、
あくまで距離1が縮まることでしか視聴者が「ガチ恋」を意識できないんですよ。
タレント起因で視聴者との距離が詰まることに「ガチ恋」の本質がある気がする。
恋の構造分解だ。
これが~~ 恋の構造
 

●ホロの豊洲ライブで最前で推しジャンしてる人がいた

ホロライブさんの豊洲ライブ、1月に行ってきて非常に良かった。
それで舞台のやや下手側だったかな、最前に男性2人組がいて、
演者が自分たちの近くに歩いてくるとピョンピョンとジャンプするんですよ。
誰が近くにいても跳ねてたので正確には推しジャンとは違うな。
とにかくあれがすごく印象的だった。

声優ライブで同じ光景があっても「お 元気だな」と気にも留めないんだけど、
Vの人のライブであって、あの人達にとっては"今"眼前に"いる"んだよなと思うとめちゃくちゃエモくなっちゃって。
Vの人のライブを観て僕はよく在不在がどうのとか平面と立体がどうのとか言うんだけど、
あの瞬間でジャンプしちゃうことが全部の答えだったと思うんだよな。

さっきの話で言うとこの場合距離1って定義できる?
あの最前の男性たちと二段目の柵で見てた僕にとって違うのは距離2だけで、
その瞬間上で定義した距離は全部ぐちゃぐちゃになって
携帯と目の距離はステージと客席の距離でもありうおおおお


●無性のVの人好きな気がする

無性はnon-sexualという意味です。
緑仙さんでびでび・でびるさんの雑談配信などをよく視聴するんだけど、
前者は性別を明らかにしてなくて(頓着も無くて)、後者はそもそも異界の悪魔なので性の概念自体が人の尺度ではない、という論理がある。
別に女性的な可愛さや男性的なカッコよさがあるVの人も全然好きなんだけど、
なんていうか、普段当たり前に受容してるストレスが無い気がする。
このストレスって何だろうな、ちょっと向き合いたくないな。
例えばライバーが男女でコラボするときの、男女であることに対するストレス、これ共有できる感覚かわかんないな。
でもそれを茶化すか焚きつけるかのようなチャット欄に対するストレスは共有できそうだな。
まあとにかくそういったモノが無くて、誰かとソロで配信するときもコラボするときも喉に引っかかる物無く視聴できて良い。

あと上に挙げた2人で言うとチャット欄に対して正しく対等で正しく威圧的なのが良い。
リスナーのコメントで感情が動いてほしくないので…。


●アニソン歌枠を聞くたびに大事なものが失われていく

懐古が怖くなるときがたまにあるんですよね。
自分はまだ新しいものへの興味や開拓精神が若いままだと思っていたいので…。
でもVの人、平気でゼロ年代J-POPやゼロ年代アニメソングを唄うじゃないですか。
こう、脳ミソの、大脳の奥のほうに不用意に触れられる感覚というか、
自分が築いてきた地盤の下のほうを急に掘り返されて足元が揺らぐ感覚というか、
そういう、経年で記憶の隅に置いてきた曲を急に唄うじゃないですか。
あれがめちゃくちゃ気持ちよくてめちゃくちゃ怖い。

記憶が有限である以上「経年で記憶の隅に置いてきた曲」も多分有限で、
そういう懐古資源を強制的に消費させられて強制的に気持ちよくさせられるみたいな。
ステータスが一定時間上昇する消費アイテムが数個しか無かったらボス部屋の前まで使わずとっておきたいじゃないですか。
それを道中にバンバン使ってしまう不安感、そういうのがある。

それでいて、実は僕は音楽に対する開拓精神が既に衰えてしまっていて、それに気づくのも怖い。
そんなことは無いはずだと机の上にある上田麗奈さんの新譜『Empathy』に目をやるも
ジャケットの上田麗奈さんは目を瞑って何も訴えない。
童田明治さんアーカイブでも聴こうかな。



終わり

水瀬いのりさん24歳の誕生日おめでとうございます

バーチャルYouTuberさんの配信、ちょー楽しいんですよ。

 

2年近く経ってまだVの人を観続けてるしアニメやラジオの視聴時間がどんどん削れていくのがわかるんだけど、

2年経つことで多分楽しみ方の質も変わってて、自分で去年書いたブログを読み返したときVの人の楽しさをあの時点で構造分解しなかったの偉かったなと思う。

2年経っても構造分解できる言葉は持ってないが…。

 

 

で、今年の5月にVの人のライブに初めて行ってきたんですよ。

アイドル部〜1st Anniversary PARTY〜はんぱないパッション

アイドル部さんのライブ。

イベントの構成やらなんやらは全部省略するんだけどめちゃくちゃ良かったのが、

アイマスのライブなんかでよくある、ソロ曲中に袖で別のアイドルが一緒に踊るやつ (ここで参照がアイドルマスターなのは悲しいことですね)、

あれがあって、

真っ黒な画面の中に急にアイドル部さんのメンバーが出てきて一緒に踊ったと思ったら曲の終了とともにパッと消えるんですよ。

出てくると思ってなかった演者さんが急に出てきて虚を突かれたというのもありつつ、

「さっきからそこに居たの!?」や「でも我々は黒い画面しか認識できないからフェアじゃない!」などぐちゃぐちゃと今見ているモノに対する認知が歪められて。

今まで我々が観てきた非V音楽ライブは「ステージに出る」と「ステージから捌ける」が物理的に連続で儀式的で直観的だったんですよ。

でもVの人は瞬間に出てきて瞬間に消えていて、「その場に居る」性と「その場に居ない」性が同時にあって、不連続に現れたり消えたりできるじゃないですか。

多分なんだけどディスプレイに何も写ってない状態で音声だけ流れるVの人のライブがあったらそれは「不在」判定じゃないですか。

非不在性を保証するのが視界だけというのがめちゃくちゃ頼りなくて、

じゃあ僕が毎日電車の中でBGMとして聞いているVの人の歌配信のアーカイブにおいて話し手は不在だし架空の何かを聞きながら今歌詞を間違えて照れている人格も画面から目を離したらそれは人格とは定義されなくて・・うおおお

 

 

にじさんじのエポックな点を語るときよく言うのが(既に古い言説かもしれない)、

にじさんじ以前のVの人は「バーチャル空間」に「仮想の体」で曖昧に存在していた一方、

にじさんじの人は今ここに”居る"んですよと。

黒髪ロングで制服を着て高校に通ってる月ノ美兎さんが東京のどこかに住んでて生活をしているし、

日本に程近いどこかにヘルエスタという国があって生活があり交友があり接触があるんですよ。

前者を不在、後者を非不在と捉えるなら前段と不在の定義が変わってきて、

生活があり交友があり接触があることを我々は(配信の性質上)音声を通じてでしか認識し得ないじゃないですか。

配信というフィルタを通してたまたま我々の視界で認識できるのは画面の中で平面的に動く人なんだけど、

ここでいう不在なら、配信中の機材トラブルで自身の姿が映ってないVの人が水を飲んで嚥下音をマイクに載せたりするのは非不在じゃないですか。

 

 

たとえば顔も名前も全く知らない芸能人やVの人がいたらそれは存在してないことと同じで、

でも電車の中で通路を塞いでくるおじさんは顔も名前も知らなくても今ここに存在はしてて。

後者が五感に頼った絶対的な存在なら前者は自分フィルタを通した相対的な不在で、

多分自分の脳内に人物名ごとのフォルダがあって、フォルダ内のディレクトリの深さや総データ量などの値で相対的不在性を判定してる気がする。

そしたら絶対不在でも五感を使う以上脳のどこかを経由する必要があってこれも相対的な基準ですね、便宜上絶対不在って言うけど。

じゃあ絶対・相対の2軸を以て不在か非不在かの二値で与えるかというと多分そうじゃなくて

というのは我々は壇上で歌う声優の不在性を嬉しく感じたりVの人の不在と非不在の同居に心くすぐられるじゃないですか。

不在ってのはもっとこう、2軸でも濃淡で表されるんですよ。

 

そうやって居なかったものが居ることが気持ち良くて、

居るものが居なくなることが更に気持ち良くて、

アイドル部の人が視界から唐突に現れて唐突に消える気持ち良さは結局、

ステージの上の声優を客席から観る気持ち良さ、アニメキャラの声としてテレビから声が聞こえる声優のそこに居なさと同源なんですよ。

その文脈において我々はついにVと声優を不可分なものにできたんですよ。

 

 

 

今年は6月に水瀬さんの武道館2daysワンマンがあって2階席の最奥から主にディスプレイに映る水瀬さんを観ていた。

 あれは居たのかなあ。

 

水瀬いのりさん24歳の誕生日おめでとうございます。

 

 

 

映画100本観た

まえがき

映画100本観た。
多分中学生くらいからロクに映画観てなくて、
親もそんなに映画を観る人でもなかったから映画を観る文化自体希薄だった。
バック・トゥ・ザ・フューチャーハムナプトラしか観てなかった。
このままじゃ写真に映ってる僕がどんどん薄くなっていくみたいなことしか言えなくて、
日常でサラッと名作映画で例えた上手いこと言いたい。

2018年の1月1日にあまりにヒマで録画用のHDDに溜まってた映画を見始めて、
それを3日くらい連続で続けたのでエンジンが掛かって、
今年は映画を1日1本観るぞと決めた。
でも一瞬で破綻したから1年で100本に下方修正した。

目標

  • 洋画・邦画・その他問わず100本観る
  • 新作・旧作問わず100本観る
  • アニメ映画は除く(ほっといても観てるので)

使ったもの

観たもの

01. 英国王のスピーチ
02. レナードの朝
03. ダンサー・イン・ザ・ダーク
04. ラッシュアワー
05. インデペンデンス・デイ
06. グランド・イリュージョン
07. ターミナル
08. 2001年宇宙の旅
09. エターナル・サンシャイン
10. インターステラー
11. インセプション
12. トゥルーマン・ショー
13. レオン
14. 100歳の華麗なる冒険
15. ショーシャンクの空に
16. ハングオーバー!消えた花ムコと史上最悪の二日酔い
17. ゼロ・グラビティ
18. プラダを着た悪魔
19. エスター
20. パルプ・フィクション
21. チョコレートドーナツ
22. グレイテスト・ショーマン
23. 嫌われ松子の一生
24. 告白
25. 夢
26. 羅生門
27. セッション
28. 乱
29. ラヂオの時間
30. THE 有頂天ホテル
31. 時計じかけのオレンジ
32. ライフ・イズ・ビューティフル
33. 壬生義士伝
34. レディ・プレーヤー1
35. シャイニング
36. ミスト
37. キャビン
38. ペントハウス
39. 鍵泥棒のメソッド
40. アメリ
41. 七人の侍
42. 万引き家族
43. ウォンテッド
44. ミッドナイト・イン・パリ
45. 17歳のカルテ
46. グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち
47. ティファニーで朝食を
48. 自転車泥棒
49. 無防備都市
50. 浮き雲
51. スタンド・バイ・ミー
52. ぼくらの七日間戦争
53. カメラを止めるな!
54. ノーカントリー
55. 八つ墓村
56. 震える舌
57. プリディスティネーション
58. ファーゴ
59. 死霊館
60. フォレスト・ガンプ/一期一会
61. ラ・ラ・ランド
62. オーシャンズ11
63. エクソシスト
64. 着信アリ
65. ゴッドファーザー
66. 雨に唄えば
67. 凶悪
68. ファイト・クラブ
69. スクール・オブ・ロック
70. トレインスポッティング
71. 麗しのサブリナ
72. この子の七つのお祝いに
73. チャーリーとチョコレート工場
74. 道
75. 沈黙 -サイレンス-
76. 白熱(1949)
77. スティング
78. 博士の異常な愛情
79. 哭声
80. ジョーズ
81. search/サーチ
82. ジョニー・イングリッシュ アナログの逆襲
83. ローマの休日
84. キャロル
85. リリーのすべて
86. 七年目の浮気
87. セブン
88. 十二人の怒れる男
89. 羊たちの沈黙
90. (500)日のサマー
91. アメリカン・ビューティー
92. タクシードライバー
93. オデッセイ
94. ミザリー
95. ボヘミアン・ラプソディ
96. 来る
97. バグダッド・カフェ
98. グランド・ブダペスト・ホテル
99. ニュー・シネマ・パラダイス
100. キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン

感想

映画ごとの感想は書きません。
なぜなら経過時間と解像度と理解度に差があるから…。
100観ると決めて100本観れたので全能感がある。
この歳になっても長期目標を定めて達成できるのだ、うおおお。

100本目を観たのが12月30日だったのでかなりギリギリだった。
100って数字が大きい感じするけど実は1年で100本って割と簡単なんですよ。
週に2本観れば達成できるし。
週に40本アニメ観なくて週に30時間くらいVtuberの配信観なかったら簡単に達成できる。
ほんとに。

でもVの人が言及した映画タイトルを翌日視聴するなどの相互性もあった。
好きな映画として挙げてたので『ペントハウス』を観たり、
Vの人との同時視聴企画で『セッション』を観たりして非常に良かった。
「ISLAND」で「輪廻の蛇」への言及があったのを受けて『プリディスティネーション』を観るなどの
アニメからの吸収も若干あった。
カウントも後半になるとVの人が挙げた映画を既に視聴済みという体験が数回あってこれが一番気持ちよかった。

あとこれは普段映画観ない人が1年で100本観るぞ!って取り組んだときの感想なんだけど、
95本目くらいから「あと5本しか観れないじゃん…」ってなぜかブルーになってて、
100本以降はもうこれ以上映画観ちゃいけない気分になる。
「100」って終わりの数字が見えてるのがそういう映画の演出みたいだしな。
僕は1年かけて『映画100本観る』という映画を作っていたという入れ子構造だったんですよ。
インセプション』みたいな。
2019年になったら何かまた目標を定めてカウントが1から始まるのかな。
『(500)日のサマー』のオータムと出会うときみたいな。
例えが別に上手くない!

水瀬いのりさん23歳の誕生日おめでとうございます

バーチャルYouTuberにドハマりしたので特に書くことが無いです。
書くこと無いな〜って人と話してたら「こういうのは発信じゃなくて記録なので」と諭されたので書いとこうね。


バーチャルYouTuber、チョー楽しいんですよ。
ゲーム実況も歌ってみたもマシュマロ返し雑談も全部楽しい。
なんか全員がそれぞれの人格を持ってて(便宜上「人格」って言葉を使うんですけど)、
「人格を持ってる」って当たり前の感想が最初に出てくるくらい、配信を通して人格がスッと伝わってきて。
楽しさの構造分解はもっと語り得る言葉を増やしてからにするね。


でも人生2周目突入したな!という実感があるんですよ。
あれだけ声優のゲーム実況を腐して声優の萌え台詞コーナーであくびをしてたのに、
ウキウキしながらゲーム実況のアーカイブを消化して
ニヤニヤしながらリクエスト台詞枠を視聴するんですよ。
中学生くらいで初めて声優ラジオにハマって、
何聴いても楽しいし確かな声優知識拡大に対する手応えを感じる期、
あれが来てる。

配信のコメント欄を見てると、
例えば配信者が「初見の人〜?」と投げかけたことに対して虚偽の申告をして、
「絶対初見じゃないもん〜その名前見たことあるし」的なやりとりがあったり、
なんか概して「ファンであることを主張したい人」みたいなのもポツポツいて、
2周目にしてあれはなんかRPGのシリーズ通して出てくる敵キャラみたいなもんなんだなと思う。

あと自分は基本Vtuberツイッターをフォローしてないんですよ。
非公開リストにはバンバン入れてるけどフォローはあんまりしたくなくて。
リプライもしてないしfavも多分ほとんどしてない。
Vtuberへコミットできるポイントって実は「チャンネル登録/コメント」と「Twitter」くらいじゃないですか。
これ声優で言うとラジオ、ニコ生、イベント等があると思うんだけど、
我々は、例えば今までどのイベントにも必ず行くほど好きだった声優がいたとして、
経年によって何かがすり減った結果、例えばチケットを申し込まなかったり
チケットを持ってるけど当日行くのが面倒になって不参加になったりして気持ちになるじゃないですか。
「能動的にコミットしなかった」ってやっぱ大きいんですよ。
そういうのが行動として可視化されることに対するストレスもあると思う。
それの延長でハマってるときにフォローしたVの人への関心が薄まって、
でもタイムラインに情報が流れ続けるのも負い目を感じてリムーブやミュートをするときに
多分少なからずストレスがあると思って。
そこに対する自衛としてフォローしないというのがあるからこれも2周目感がある。

でもリストとYouTubeの登録チャンネルで世界が完結してるのって逆に良くて。
前にメイド喫茶にハマってる人と話をしたとき、
メイドさんTwitterを見ないしフォローもしないことで店内だけで世界を完結させてる」
と言っててウンウンと思って、
笑ゥせぇるすまんでも喪黒の言いつけを破って破格の待遇のお店をその時間その空間で完結させなかった人は廃人になるもんね」と返した。
そういう話っぽい。
YouTubeのチャンネルもTwitterのリストも自分からアクセスして初めて見られるもので、
気になったときに気になった配信を気になっただけ観るという行為について
世界を分けることで心理的障壁が低くなってる。
「気になったときに気になった配信を気になっただけ観る」というファン行為こそが我々が経年で獲得したメンタリティだもんな。


今年は水瀬さんのライブツアーがあって愛知と石川に行って非常に良かった。
水瀬いのりさん23歳の誕生日おめでとうございます。