水瀬いのりさん25歳の誕生日おめでとうございます

バーチャルYouTuberさんの配信、めちゃくちゃ楽しいんですよ。

 

 

アニメの話なんだけど、アニメ内アニメってあるじゃないですか。

劇中劇の狭い意味としての「アニメ内アニメ」。

目を瞑って考えてみてほしいんだけど、「主人公がアニメオタク」という設定のアニメで、主人公が作中でアニメを観るとき、「アニメのキャラ」と「アニメ内アニメのキャラ」ってどう区別できるんだろう。

我々はおそらくアニメキャラと現実キャラをなんとなく区別できてるんだけど、アニメキャラがアニメ内アニメキャラを観るとき、現実キャラ(我々)はその2層目と3層目を区別できなくない?

 

これに対して自分の中で一応の仮説はあって、

1:アニメを現実に寄せてアニメ内アニメをフィクションに寄せる(設定の非現実化)

2:絵のタッチを変える(容姿の非現実化)

のどちらか、あるいは両方を駆使して区別可能なるのではないかと睨んでる*1

2に対する議論は今回は置いといて1の話なんだけど、パッと今思いつく例として『俺妹』のメルルとかそうじゃないですか。高坂桐乃さんが既にアニメなのに高坂桐乃さんが心酔するアニメはもっとアニメじゃないといけない。『3D彼女』もそうだったと記憶してる(これは絵も変えてたと記憶してるから多分1・2両方)。『Re:CREATORS』はアニメキャラが現実に出てくるという設定でアニメ内アニメキャラとアニメキャラを区別するのに1の要素がかなり大きかった気がする*2。ちなみにアニメ内でドラマを放映させたいときは逆で、アニメを現実に寄せてアニメ内ドラマも現実に寄せる感じだと睨んでます(『みなみけ』内の「先生と二宮くん」とか。『サザエさん』で波平さんが時代劇を観るのも似てるかもしれない。)。

でも、アニメを現実に寄せるのは我々が現実キャラだから直観的に理解できるけど、「アニメ内アニメをフィクションに寄せる」ときの「フィクション」って何だろうな。

 

 

「フィクション」を考えるうえで上述のアニメの現実化と並んで、アニメの劇中劇を非現実化することを「アニメ化」ってここでは呼びます。既存の言葉で意味を再定義したらカッコいいから…。

じゃあ具体的にアニメ化の例って何かというと、パッと思いつくのは上でも挙げた魔法少女なのかな。魔法が非現実なうえに、魔法少女のコスチュームって一発で「現実にこんな服装で歩いている人いない」と分からせるデザインや色合いじゃないですか。で、この「現実にこんな服装で歩いている人いない」感ってアニメ内アニメの描写では多分重要で、アニメ内アニメって大概が劇中で放映されてるという状況で短い尺で流れるので、いちいち魔法や超能力を使えるみたいな非現実設定を描写する時間が無いことも多いんですよ。我々がアニメ内液晶に映ってる人物を見てパッと「アニメ内フィクションだな」とわかるのは結構服装やキャラデザイン(角や尻尾が生えてるとか)に依拠してるんじゃないかという気がする。

逆を言えばスーツや制服や特段奇抜じゃない私服などを着ることが「現実化」のような位置になるけれど、スーツや制服を来てても設定でいくらでもアニメにできるし、外見だけを以て「アニメ」と「現実」を1軸の両端として考えるのは危険な気がするので、ここでは「非アニメ化」として区別したいな。

改めて、アニメ化したアニメ内アニメキャラは、視聴者が一瞥して「アニメだな」と思う外見であることがままあるという点を強調しておきたい。

 

 

Vの人が我々と世界を隔ててることを担保してくれてるのは、設定や外見がアニメ的であることだと思ってて。アニメ化すればするほど「ここにいない」性を担保してくれるし、翻って非アニメ化していくほど「ここにいる」性が担保されるんですよ。手癖で在不在の話をしてます。

 にじさんじがVの文脈で「ここにいる」性を以てエポックだったという言説は樋口楓さんが学生服で大阪に住んでいたり、同じく高校生の剣持刀也さんが神奈川に住んでいたりという内外の非アニメ性でも補強される一方、勇気ちひろさん物述有栖さんの声とプロフィールと外見を以て「ここにいない」性を補強するベクトル、つまり視聴者が一瞥して「アニメだな」「フィクションだな」と思うベクトルも確かにあると思う。

これはかなりアニメの劇中劇を技術でアニメ/ドラマに区別させるのとアナロジーを感じるし、「V」と「アニメ内アニメ」が構造上似ているという事実は「現実→アニメ→アニメ内アニメ」の3層構造と同位相に「X→現実→V」みたいな観測世界Xを推測させて嬉しくなっちゃうな。

 

そしてアニメ内アニメと同じようにVの人のアニメ⇔非アニメも揺らぐんですよ。アニメ内アニメの話に戻ると、会社勤めのサラリーマンの物語がアニメ内液晶にあったら多分「ドラマ」だと思うけど、そのサラリーマンが急に超能力を使うなどしたら「アニメ」だなと思い直す、そういう認識の揺らぎがあると思ってて、Vの人もその揺らぎに対する安心のできなさがある。

それが一番揺らぐのってVの人の新衣装お披露目なんですよ。というのも大概の新衣装ってVの人が自分で意志と哲学を持って発注したもので、アニメ⇔非アニメの変化が一番露骨に生々しく出てる(非アニメを生々しさって表現するのは粋じゃないですね)。少なくともその変化の背景にV自我の発露というのはきっとある。

ニュイ・ソシエールさんは魔女なんだけど私服の新衣装がお披露目されたときはギャッてなっちゃったし、

騎士である白銀ノエルさん新衣装をお披露目したときはなるほどってなっちゃった。

どちらもネガティブでもポジティブでもない驚きとしてなんだけど、確かな連続性を持ってアニメが非アニメになっていく感じというか、その連続性があるから逆に落ち着かない感じというか、そういう足場の安定のしなさがある。もしかしたら単に人の自我の発露がちょっと苦手なのかもしれない。現実内液晶に映るVの人が非アニメに動き出すなら、Vの人が死んだとき我々は秋葉原で上映会とともに弔うのかな。

 

今年は1度も水瀬いのりさんを観なかった。

水瀬さんの一人ラジオ(MELODY FLAG 第203旗)でさらっと「幼児心理カウンセラーの資格を取った」と報告していて、新衣装お披露目だなと思った。

 

水瀬いのりさん25歳のお誕生日おめでとうございます。

 

 

 

 

*1:ヲタクに恋は難しい』ではなんとアニメ内アニメとして『冴えない彼女の育てかた』のビジュアルをそのまま持ってきていて、2として解釈できるのは勿論、現実キャラの既存知識を利用してアニメキャラをアニメ内アニメキャラに再定義してる点で1でも2でもなくてエポックなんですよ。

*2:煌樹まみかさん(魔法少女のアニメ内アニメキャラ)は作中で死ぬんですけど、なんと現実の秋葉原で葬儀をされて一挙上映会もあって楽しい。現実とアニメを不可分にする作品コンセプトに即してはいる。でも500円で葬儀に参列できて特典ポストカードと清め塩があるから嬉しい。